それほど深く付き合ったわけではないけれど。小さいころから、正月に親戚みな集まったときなどに会う程度だったけれど。
農林水産省の農業試験場に勤め、日本各地にある農業試験場を転々としていたため、岐阜の地元で暮らしていたことはほとんどなかった。
石垣島にも数年暮らしていた。私がダイビングを始め、沖縄離島に通い始めると、島の生活、文化、海のよさ、などについて楽しそうに話してくれた。
基本的にいつでもいろんな話題を楽しく話す人だった。他人と話すことが好きな人だった。飛行機や新幹線で隣同士になった人に話しかけ、すぐに仲よくなってしまう人だったらしい。山の手線でさえ、隣の人に声をかけていたらしい。奥さんが「へたに声かけると刺されるよ」なんて心配するほど。
60歳を過ぎたあともいくつかの団体で働き、今年、2007年3月で完全に退職。
4月。地元へ引き上げる片付け、準備などをしている頃、脳に腫瘍があることが判明。腫瘍が脳幹を圧迫しているため、手足、顔などに麻痺が表れている、と。
5月。江東区の病院へ入院。手術。脳幹は呼吸や心臓の活動、体温調節などの神経が集中しているところ。脳の最も奥であり、中心に存在する。頭蓋骨に穴をあけ、中心付近にある腫瘍までたどり着き、取り除く。脳の他の部位を一切傷つけないように。12時間近くにかかった大手術。やはり難しい箇所にあるため、完全には取りきることはできなかったらしい。それでもかなり取り除けたらしく、手術後に見舞った時の叔父は、手術前に比べ、格段に動けるようになっていたし、話もできるようになっていた。良性の腫瘍ということで、腫瘍がまた大きくならなければ問題なさそうだった。
日本の農業、食をいつも気にかけ心配している人だった。見舞いに行った日も、中国野菜の農薬問題などをとても気にかけていた。中国の農業に日本の農政はどう関わるべきか、日本人は何をどう食っていくべきか、などなど考えることは尽きない様子だった。退職した後なのに。結構長く話をした(というか聞いていただけか)が叔父の話は論点が面白く、楽しい時間だった。
しばらく病院でリハビリをし、夏前に退院して岐阜の自宅へ。
7月末、叔父より退職のお知らせ&お見舞いお礼の葉書が届く。
8月。夏休みに叔父の家へ寄る。高台にある大きな昔ながらの造りの建物。暑い夏だったが、開け放った縁側から気持ちよい風が入っていた。訪ねたことを喜んでくれ、一緒にスイカを食べた。帰るときには、ゆっくりではあるが玄関先まで歩いてきて見送ってくれた。
その後、再びふらつきが目立つようになり、再手術することになったと聞く。12月に手術することが決定。
12月13日慶應義塾大学脳神経外科に入院。脳幹部の手術にかけての第一人者という先生にお願いする、と。
12月18日(火)手術当日。午前8時30分、手術室へ。うちの両親も立会いに東京へ来るというので一緒に病院へ。ロビーで出てくるのを待つ。午後8時、手術終了。予定通り11時間半。大手術。叔父の家族、親族で先生より説明を聞く。
・良性の中でもタチの悪い腫瘍であり、急速に大きくなっていた・腫瘍はほぼ取り除けた・しばらく麻痺は残るが圧迫されていた脳幹が徐々に元に戻れば徐々に戻る
とにかく手術は成功、ということでみな一安心。病院を出て、西荻へ向かう。「だいこんの会」という名の忘年会へ。
12月19日(水)CTで確認したところ、手術したのとは別の部位から出血し意識戻らない、と連絡が入る。その状態で安定している、とのこと。その安定を確認し、うちの両親は岐阜へ戻る。
一日、会社。夜、会社関係忘年会。
12月20日(木)昼過ぎ、「危険」という件名のメール受信し、どきり。朝方、血圧が30台まで下がって自発呼吸停止した、と。会社早退し、病院へ向かう。血圧は持ち直したが自発呼吸は戻っていない。血圧:113-52。顔、手にかなりむくみ。もってあと1週間と言われる。
叔母が吐き出す言葉を受け止める。もし亡くなったら病理解剖してもらうようお願いした、と。脳でなにが起きていたのか少しでもわかるのなら。少しでも今後の医学に役立つのだったら。主人はわからないまま、というのがいやな人。解剖してもらうことを望んでいるに違いない、と。
何か役に立ちたいが話を聞くことしかできず。
12月21日(金)そのまま安定していたのだろうか。特に連絡なし。仕事終了後、仲間内で飲み会。
12月22日(土)特に変化ない様子。夕方、音楽好き友人宅クリスマスパーティへ。
12月23日(日)夜、病院へ。意識なし、自発呼吸なし。
12月25日(火)手術から1週間。夜、病院へ。意識はないが昨日から少し自発呼吸が見られる、と。
12月26日(水)大きな変化ないらしい。仕事終了後、お世話になっていた人と久々に飲む。
12月27日(木)午後、会議中に電話。かなりあぶない、と。会議終了後、急いで病院へ。血圧を上げる薬のおかげで血圧持ち直していたが、数日前よりは低いところで安定。時々下がったりする。千葉の親類家族も到着。皆で囲み手足をさすり、祈る。
12月28日(金)仕事納め。夕方大掃除後、会社フロア内で軽い打ち上げ。その後予定されていた部門忘年会はキャンセルし病院へ。脈拍がかなり高い。120。血圧下がり気味。上が90あたり。夜、雨。
12月29日(土)10時17分、父より電話。また血圧が下がった、と。すぐに病院へ。朝方まで降っていた雨は上がっている。14時30分、血圧:57-36。かなり低い。血圧を上げる薬ももう最も強くしてあり、これ以上は何も打つ手はない。見守るだけ、と。少しして血圧:81-48に持ち直し、ほぼ安定。安定するラインが昨日より下がっている。
投与し続けている薬は、ドブポンとノルアドレナリン。この2種で1セット。薬がなくなって入れ替えるちょっとの間にも血圧が下がるため、2セット用意し、常にどちらかから切れ目なく投与されるようにセッティングされている。
叔母、再度病理解剖のお願いをした、と。
家族と共にひたすら見守る。それしかできず。帰宅時、再び冷たい雨。
12月30日(土)叔父の息子、39歳の誕生日。朝、父より電話。7時52分、息を引き取った、と。すぐに病院へ。雨上がり、真っ青な空。朝日がまぶしい。10時過ぎ、病院到着。すでに病室の扉は閉まっていた。看護士さんに霊安室の場所を聞き、向かう。解剖は9時半より既に始まっているらしい。家族、親族とともに霊安室で待つ間話を聞く。朝日がさーっと差し込んできてしばらくしてから、静かにすーっと息を引き取った、と。息子の誕生日の朝を待って逝ったのだろう、と。
13時、解剖を終え、叔父が来る。あれだけ晴れていた空には真っ黒な雲。みぞれ交じりの雨の中を。一人ずつ線香を立てる。医師、看護士さん数名のチーム全員も焼香しに訪れる。解剖の結果を聞く。やはり手術した部屋と違う場所で出血が起きていた、と。(脳内はいくつかの部屋に分かれている)出血の原因はわからず。事故みたいなものだろうか。くやしい。医師の方々もくやしそう。叔父を車に乗せる。家族全員乗れるようにと買った大きな車(エスティマ)。
14時。家族と共に、息子の運転で岐阜の家へ帰るべく出発。誕生日を迎えた息子の運転で。
この半月、叔父とその家族にいろんなものを見せてもらいました。こんな言い方して不謹慎で失礼かもしれないけれど、普通では絶対体験できないことを勉強させてもらいました。叔父さん、ありがとうございました。
ゆっくりやすんでください。
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