2008年1月アーカイブ
前回行ったのは11月24日。紅葉の季節でした。
2ヵ月ぶりにまたも高尾山へ。
今回は、高尾山山頂からもう少し足を伸ばしてみる予定で出かけてみました。
が、高尾山口に着いたのはすでにお昼過ぎ。
時間を稼ぐために、ケーブルカーに乗ってみました。
(実は前からちょっと乗ってみたかったんです)。
かなりおもしろい。
この急勾配を一気に(ゆっくりと)登ります。
ケーブルカーを降りて13:00。歩き始めます。
薬王院を越えて進みますと、雪。
先日降った雪がかなり残ってます。
一度とけて再び凍ったところも多く、すべります。
危険。
よく見ると、アイゼンを靴につけている人も多く。
まったく予期していなかった状況に戸惑いつつ、
13;45高尾山山頂到着。
さらに奥へ歩き進みます。
雪が解けて泥状態になっている場所も多く、
すべりはしないけれどかなり歩きづらい状態。
しかし、ここまで来ると人もかなり少なくなり、
木々に囲まれた中、鳥の声と自分らが歩く音くらいしか聴こえない。
かなり心地よい空間です。
14:45 城山山頂到着。こりゃ雪山ですね。 城山茶屋で、なめこ汁とおでんを頂きます
しょうゆ仕立てのなめこ汁が冷えた体に染みます。うまい。 そろそろ下山方向へ向かったほうがよさそうだろうと、
15:00 小仏バス停へ向け、出発。 遠くかなたに都心が見えます。 1時間ほどすべらないよう注意しつつ、くだります。 16:10 高尾駅行き京王バス出発。
おばさんにいただいたお茶でさらに温まります。
茶屋のお兄さんにバス停までの道を聞いてみますと、
近い方のバス停へ行く道は凍結がひどく危険。
小仏峠を通って、小仏バス停へ向かったほうがよい、とのこと。
ちゃんと確認してみるもんですね、聞かないで進んでたらあぶないところです。
16:00頃、バス停到着。
同じように山を下ってきた人でバスはいっぱい。
高尾山。近くて身近な場所とはいえ、
やはり山でした。雪、凍結には注意。
しかし、気持ちのよい数時間。
次回はさらに先の山へ足を伸ばす予定です。
今は亡きフランク・ザッパの息子DWEEZIL ZAPPAが父の楽曲を父ゆかりのミュージシャンたちと演奏するバンド。
やはりZAPPAですからね、見ておかないと、というわけで。
とはいっても、それほど期待もしないで行ったのでした。
DWEEZILのギターはちらりと聴いたことありましたがたいした印象もなかったし。
が、これは楽しめました。
ZAPPAのあのわけわからん難曲をニコニコと気持ちよさそに演奏し続けるメンバー。
これらの曲を実際に生で聴くという、それだけで心地よい。
DWEEZILのギターもいい音してる。(SGは父の物?)
歌はちょっと厳しい感じでしたがギターはよいじゃないですか。
ゲストという扱いのRay Whiteは出たり入ったりしているものの、多くの曲でボーカル。
体型は昔とは違ってるけど、声はすばらしい。
さんざん音源で聴いたあの歌です。
歌ってないときにも体を揺らし、各人のソロにもうれしそうに反応。
Rayを見ることができたってことだけでも来た甲斐あり。
もう一人のゲストはSteve Vai。彼は数曲だけの参加でしたが、いやもうVaiでした。
ロックな人ですね、音の存在感がワンランク上です。
アンコール含めて2時間半以上。1Set。
久しぶりに強烈なロックバンドの音を浴びました。
しかし、ZEPP東京は遠い...
昨年たまたま、外国の山をトレッキングする角田光代さんをNHK BSの番組で見た。
ガイドさんに必死について歩く角田さんは非常に無口だった。
そのときに見た山と同じ場所かどうかはよくわからないけれど、やはり番組撮影のために山を歩いた時のことを綴ったエッセイ。
TVでは無口でも文章という世界では饒舌な角田さん。
この人の文章はいつも読みやすく、なんだかほっこりした感触で好き。
イタリアの山。
行きたくなります。ひとまず近場の山か。
昨年最後に見たLiveがふちがみとふなと(カルテットですが)。
今年最初もふちがみとふなとさん、ということで。
場所は武蔵小山。Live Cafe Again。
バートン・クレーンのSP盤復刻CDを作った石川さんが昨年始めたお店。
石川さんとはふちがみとふなとの演奏会場で何度かお会いして、アゲインの案内もいただいていたのですが、行くのは初めて。
適度な大きさで店内にはバートン・クレーンのPOPなどいい雰囲気。
会場にはOpenすぎに到着。すでに席はいっぱい。
なんとか後ろの丸椅子を確保。
50人以上入ったようで一段と人気上がっているのか、FF。
満員御礼に恐縮した渕上さんのMCからスタート。
何度も聴いている曲、初めて聴く曲。相変わらず多才です。
カバーで歌われたアバのチキチータが美しく。
久々に演奏された(ような気がする)At Home。船戸さんのコーラスがいいんです。
年末に上野茂都さんから贈られた新曲も披露されました。
愛しのロール。なかなか可愛らしい歌です。
いよいよ新しいアルバムの録音も始まるそうで。
上野さん作の名曲ふなとベーカリー、ふろしき仮面も収録されるようで楽しみです。
終了後、やや体調不良なこともあり、早々に店を出る。
お知り合いの方にご挨拶もせず失礼いたしました。
それほど深く付き合ったわけではないけれど。
小さいころから、正月に親戚みな集まったときなどに会う程度だったけれど。
農林水産省の農業試験場に勤め、日本各地にある農業試験場を転々としていたため、
岐阜の地元で暮らしていたことはほとんどなかった。
石垣島にも数年暮らしていた。
私がダイビングを始め、沖縄離島に通い始めると、
島の生活、文化、海のよさ、などについて楽しそうに話してくれた。
基本的にいつでもいろんな話題を楽しく話す人だった。
他人と話すことが好きな人だった。
飛行機や新幹線で隣同士になった人に話しかけ、すぐに仲よくなってしまう人だったらしい。
山の手線でさえ、隣の人に声をかけていたらしい。
奥さんが「へたに声かけると刺されるよ」なんて心配するほど。
60歳を過ぎたあともいくつかの団体で働き、
今年、2007年3月で完全に退職。
4月。
地元へ引き上げる片付け、準備などをしている頃、脳に腫瘍があることが判明。
腫瘍が脳幹を圧迫しているため、手足、顔などに麻痺が表れている、と。
5月。
江東区の病院へ入院。手術。
脳幹は呼吸や心臓の活動、体温調節などの神経が集中しているところ。
脳の最も奥であり、中心に存在する。
頭蓋骨に穴をあけ、中心付近にある腫瘍までたどり着き、取り除く。
脳の他の部位を一切傷つけないように。
12時間近くにかかった大手術。
やはり難しい箇所にあるため、完全には取りきることはできなかったらしい。
それでもかなり取り除けたらしく、
手術後に見舞った時の叔父は、手術前に比べ、
格段に動けるようになっていたし、話もできるようになっていた。
良性の腫瘍ということで、腫瘍がまた大きくならなければ問題なさそうだった。
日本の農業、食をいつも気にかけ心配している人だった。
見舞いに行った日も、中国野菜の農薬問題などをとても気にかけていた。
中国の農業に日本の農政はどう関わるべきか、
日本人は何をどう食っていくべきか、などなど考えることは尽きない様子だった。
退職した後なのに。
結構長く話をした(というか聞いていただけか)が叔父の話は論点が面白く、
楽しい時間だった。
しばらく病院でリハビリをし、夏前に退院して岐阜の自宅へ。
7月末、叔父より退職のお知らせ&お見舞いお礼の葉書が届く。
8月。
夏休みに叔父の家へ寄る。高台にある大きな昔ながらの造りの建物。
暑い夏だったが、開け放った縁側から気持ちよい風が入っていた。
訪ねたことを喜んでくれ、一緒にスイカを食べた。
帰るときには、ゆっくりではあるが玄関先まで歩いてきて見送ってくれた。
その後、再びふらつきが目立つようになり、再手術することになったと聞く。
12月に手術することが決定。
12月13日
慶應義塾大学脳神経外科に入院。
脳幹部の手術にかけての第一人者という先生にお願いする、と。
12月18日(火)
手術当日。午前8時30分、手術室へ。
うちの両親も立会いに東京へ来るというので一緒に病院へ。
ロビーで出てくるのを待つ。
午後8時、手術終了。予定通り11時間半。大手術。
叔父の家族、親族で先生より説明を聞く。
・良性の中でもタチの悪い腫瘍であり、急速に大きくなっていた
・腫瘍はほぼ取り除けた
・しばらく麻痺は残るが圧迫されていた脳幹が徐々に元に戻れば徐々に戻る
とにかく手術は成功、ということでみな一安心。
病院を出て、西荻へ向かう。「だいこんの会」という名の忘年会へ。
12月19日(水)
CTで確認したところ、手術したのとは別の部位から出血し意識戻らない、と連絡が入る。
その状態で安定している、とのこと。
その安定を確認し、うちの両親は岐阜へ戻る。
一日、会社。夜、会社関係忘年会。
12月20日(木)
昼過ぎ、「危険」という件名のメール受信し、どきり。
朝方、血圧が30台まで下がって自発呼吸停止した、と。
会社早退し、病院へ向かう。
血圧は持ち直したが自発呼吸は戻っていない。
血圧:113-52。顔、手にかなりむくみ。
もってあと1週間と言われる。
叔母が吐き出す言葉を受け止める。
もし亡くなったら病理解剖してもらうようお願いした、と。
脳でなにが起きていたのか少しでもわかるのなら。
少しでも今後の医学に役立つのだったら。
主人はわからないまま、というのがいやな人。
解剖してもらうことを望んでいるに違いない、と。
何か役に立ちたいが話を聞くことしかできず。
12月21日(金)
そのまま安定していたのだろうか。特に連絡なし。
仕事終了後、仲間内で飲み会。
12月22日(土)
特に変化ない様子。
夕方、音楽好き友人宅クリスマスパーティへ。
12月23日(日)
夜、病院へ。意識なし、自発呼吸なし。
12月25日(火)
手術から1週間。
夜、病院へ。意識はないが昨日から少し自発呼吸が見られる、と。
12月26日(水)
大きな変化ないらしい。
仕事終了後、お世話になっていた人と久々に飲む。
12月27日(木)
午後、会議中に電話。かなりあぶない、と。
会議終了後、急いで病院へ。
血圧を上げる薬のおかげで血圧持ち直していたが、
数日前よりは低いところで安定。時々下がったりする。
千葉の親類家族も到着。皆で囲み手足をさすり、祈る。
12月28日(金)
仕事納め。夕方大掃除後、会社フロア内で軽い打ち上げ。
その後予定されていた部門忘年会はキャンセルし病院へ。
脈拍がかなり高い。120。血圧下がり気味。上が90あたり。
夜、雨。
12月29日(土)
10時17分、父より電話。また血圧が下がった、と。
すぐに病院へ。
朝方まで降っていた雨は上がっている。
14時30分、血圧:57-36。かなり低い。
血圧を上げる薬ももう最も強くしてあり、これ以上は何も打つ手はない。
見守るだけ、と。
少しして血圧:81-48に持ち直し、ほぼ安定。
安定するラインが昨日より下がっている。
投与し続けている薬は、ドブポンとノルアドレナリン。
この2種で1セット。薬がなくなって入れ替えるちょっとの間にも血圧が下がるため、
2セット用意し、常にどちらかから切れ目なく投与されるようにセッティングされている。
叔母、再度病理解剖のお願いをした、と。
家族と共にひたすら見守る。それしかできず。
帰宅時、再び冷たい雨。
12月30日(土)叔父の息子、39歳の誕生日。
朝、父より電話。
7時52分、息を引き取った、と。
すぐに病院へ。
雨上がり、真っ青な空。朝日がまぶしい。
10時過ぎ、病院到着。すでに病室の扉は閉まっていた。
看護士さんに霊安室の場所を聞き、向かう。
解剖は9時半より既に始まっているらしい。
家族、親族とともに霊安室で待つ間話を聞く。
朝日がさーっと差し込んできてしばらくしてから、
静かにすーっと息を引き取った、と。
息子の誕生日の朝を待って逝ったのだろう、と。
13時、解剖を終え、叔父が来る。
あれだけ晴れていた空には真っ黒な雲。みぞれ交じりの雨の中を。
一人ずつ線香を立てる。
医師、看護士さん数名のチーム全員も焼香しに訪れる。
解剖の結果を聞く。
やはり手術した部屋と違う場所で出血が起きていた、と。
(脳内はいくつかの部屋に分かれている)
出血の原因はわからず。事故みたいなものだろうか。くやしい。
医師の方々もくやしそう。
叔父を車に乗せる。
家族全員乗れるようにと買った大きな車(エスティマ)。
14時。
家族と共に、息子の運転で岐阜の家へ帰るべく出発。
誕生日を迎えた息子の運転で。
この半月、叔父とその家族にいろんなものを見せてもらいました。
こんな言い方して不謹慎で失礼かもしれないけれど、
普通では絶対体験できないことを勉強させてもらいました。
叔父さん、ありがとうございました。
ゆっくりやすんでください。
時々、つぶやいています