1月27日(金) Soul of どんと 2006 どんと紅白@NHKホール

どんとがハワイ島で亡くなったのが2000年1月27日。
どんとの命日である今日、NHIKホールで行われたイベント。
彼が亡くなった年に日比谷野外音楽堂で行われたサマーオブどんと2000に行き、
翌年の夏に海の幸を見て以来に行くどんと関連イベントです。
毎年、藤沢遊行寺で行われているどんと院まつりも行きたいと思いつつ行けずじまいだったので。

どんとはNHK紅白歌合戦が大好きだったということで紅白形式です。
白組、赤組に分かれたどんとゆかりのアーティストが次々と歌います。
総合司会者は竹中直人。いい人選。
そのほかの出演者はポスター写真にあるようにいろんな方面から盛りだくさん。

1曲1曲、私にとってもあまりに思い入れのある(でも最近ちょっと遠ざかっていた)曲。
それぞれいろいろと想いを書こうかと思っていましたが、うまく整理できないので断片だけ。

チーコさん(どんとの奥さんですね)が弾くベース表面の剥げた塗装にジーン。
どんとと一緒に見た頃は綺麗な青色でした。
チーコさん、ずーっとこのベースを使い続けるんでしょうね、これからも。
剥げたベースを弾いてニコニコと唄ってるチーコさんが素敵でした。

ネーネーズ時代から何度か見てる沖縄からの参加の古謝美佐子さん。
ああ、やっぱり私も沖縄好きだ、ってなぜか思いました。
最近行ってないな、行かなきゃ、と。
どんとに譲ってもらった三線(いまや形見だ)も弾かなきゃ、と。

CANDLE JUNEさんのキャンドルがステージに何本も灯る中、
ハワイの古代HULA(フラ)の正式伝道者として活躍するSANDIIと(おそらく)生徒さんたちによる、
どんとがキラウェアで倒れる前に見たという火の神ペレに捧げるフラダンス
ああ、これを見たあとだったのか・・・と・・・。

チーコさん&UAでしっとりと唄われた。ああいい曲。

もちろん紅白ですから、楽しい歌あり踊れる曲ありで、泣き笑いな3時間。
なによりもこれだけのアーティストがどんとを慕っているその雰囲気がここちよい時間でした。

清志郎と町田康が岡地さんのドラムの前で並んで唄い(きちんとミル・マスカラス人形もあり)、
くるり岸田がギター弾く横でニコニコの 古謝さんが立ち、その前でレヨナとUAが一本のマイクで唄う。
こんなイベントはそうそうありませんから。

どんとが亡くなって2ヶ月後くらいにどんとのサイトに載った記事(たぶん今は消えちゃってる)、
チーコさん、どんと父、アマナの近藤ヒロミさん、
前川守賢さん、忌野清志郎さんがどんとにあてたメッセージを
 ↓ に。

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どんとへのメッセージ

小嶋さちほさん
 どんとの、突然の旅立ちから、一ヶ月が過ぎ、激しい嵐のような驚きと悲しみ、から、しだいに、静かで深い感情へと、みなさんの心も私の心も変化してきたように思います。
 NETによせられた、膨大な数の思い、これだけの人々の心に何かの種子を植えこんだどんとという存在の有難さを感じています。
 カキコして下さった人、告別式に来て下さった人、 思い続けている人、そしてまるでスピリットとなったどんとのエネルギーを受けているかのように活動が活発になっているゴマメのみなさん、すべてのともだち、本当にありがとう!
 掲示板で、みなさんの思いの深さに涙し、また思いを共有する嬉しさを感じています。
 ここでNETの皆さんにどんとの旅立ちのいきさつを少しだけお話ししたいと思います。それはあまりにも突然で不思議な出来事でしたので。
 1月15、16、17日と名古屋近辺でライブを終え、体調もテンションも絶好調、18日に、家族でハワイ島に入りました。ゆっくりのんびり過ごして22日に、ハワイ島最大の聖地、火山の女神ペレが住むという、ボルケーノにあるホテルに古典フラとチャンティング(祈り)を見に来ました。腰ミノにココナツブラのモダン・フラではなく、祝詞のような、儀式じみたもので、そのチャント(祈り)は、女神ペレに捧げるものでした。そのダンスが終わった直後、どんとは、「目眩がする」と倒れ、病院に運ばれ、27日の朝の光の中、光の世界へとかえっていきました。
 医学的、物理的に言えば、「複数の脳内血管障害」(死亡診断書より)という一言ですが、何故、あの瞬間にそれが起きたのか?
 血圧も高くないし、血管がボロボロになっていた訳でもない。まったくフツーにすごしていた37歳の男性の生命の力を一瞬にして止めること―誰もがペレに召された、という方がリアリティを感じました。ペレはコワイ女神として有名なのです。このへんのいきさつは、私が時間をかけて謎ときをしていつか本にまとめたいと思っています。それほど劇的で、不思議な事がたくさん起こりました。しかしそれは、単なる悲劇という事ではありません。どんとの、肉体からスピリットへの移行の瞬間は、美しく、安らぎに満ちていて、感動的なものでした。
 ローザ・ボガンボスとめくるめくような生きることの喜び、快楽をメッセージし、ソロになってからは、のん気に楽しく彼岸の世界へのあこがれをメッセージしていたように思えます。そしてそれは、コインの、表裏のようなもの。どんとの生涯を、通して、やはり中心に流れていたものは、光、言葉を変えるなら愛。彼は、惜しみなく、ただ与え続けてきたのです。そのためには、自分の命など惜しむ事はなかった。実際、彼は死ぬことを恐れていませんでした。
 だからこそ、みなさんの心の中深く種子をまく事ができたのだと思います。そしてそれを、うけとれた方々が、こんなに沢山いたこと、これはキセキの様な嬉しい事です。みなさん1人1人の存在そのものが、どんとが永遠に生き続ける証です。ともにその種子を育て、水をやり、光の華を咲かせていきましょう。その時、どんとは私達といっしょにいるのです。肉体を離れたどんとは、ますますパワーアップして、楽しい世界を私達に用意してくれていますよ!
 最後に、どんとの光の世界への旅立ちを、一緒に見届けて、最後のメッセージを受けとった、ソウル・シスター桑名晴子ちゃんに、ありったけの愛と感謝を、送ります。そしてこのはからいをしてくれた、どんと、これを読んでくれてる皆様に、またまたありったけの愛と祝福を!!ありがとう~!!

小嶋さちほ  2000年3月1日


どんとさんのお父様 久富将位さん
全国の「どんと」ファンの皆様へ
父親よりの感謝とお礼のメッセージ
 この度の息子「どんと」の急逝に際して、全国各地の多数のファンの皆様から、心温か いお電話、お手紙、そしてインターネットによるメッセージをいただきまして大変ありがと うございました。厚く御礼申し上げます。家族でとてもうれしくて感激して喜んでいる毎日 でございます。
 長男の隆司が「どんと」を名乗って「ローザルクセンブルグ」から「ボ・ガンボス」を経て ソロデビューしてのミュージシャンとしては長いようで短い、目まぐるしい期間を皆さんが 暖かいご支援とご愛顧で、支え、励まし、力づけて下さって、「どんと」はどれ程喜び、感 動してきたことか、充実の生き甲斐で満ち足りてきたことか・・・。
 また2月4日の葬儀には、全国各地から数百人のファンの皆さんと音楽関係の方々のご 厚情によるご参列を頂き、親族一同身に余る光栄と感涙しているところでございます。私 の人生でこれほどまでに感激、感動し充足した至福の時間は他にはありません。
 ホームページに寄せられた夥しいメッセージを読みながら、「どんと」に対しての実に心 暖まるファンの皆さんのホットなメッセージ、優しい愛情こもった言葉に、なんて「どんと」 は幸せ者か、こんなに励まし、心から悲しんで下さる多くのファンに支えられてきたか、 家族には想像を絶する感激で感涙で、身にあまるものとして恐縮しています。
 私がミュージシャン「どんと」のインサイドストーリーとしての回想記風なエッセイ的小 説で「I ‘DONT’ KNOW」を書き出していますが、実は父親の私が一番「どんと」を知っ ているはずが、現実では何と殆ど知らない身近の存在で、「I ‘DONT’ KNOW」という 事実を「どんと」の死によって認識したのでした。
 全国にこんなにも「どんと」を愛しご声援下さる多くのファンの皆さんがいてくださるの を、そして更に音楽関係の方がたのご支援、ご厚情がこれほどまでに大きかったのかを こんなにも長い一週間で葬儀の時間と空間に強烈に認識したのでした。 カラフルで極彩色で総天然色な、ケバケバしいのが大好きな、そして、暖かなホットな南 国の楽園が大好きな、わが息子「どんと」は・・・、ついに・・・、とうとう・・・、突然に・・・、 大好きなアメリカのハワイのパラダイスに散ってしまい、天国に召されてしまいました。
 愛妻チーコとジュニアのラキ太と奈良に抱かれて、見守られて息を引きとったのでした。
 全国のファンの皆さん、どうかいつまでも「どんと」を忘れないで、「どんと」の歌を愛し続 けて下さい。いまワープロに対時していて私は嬉しくて涙が止まりません。
 本当に、皆さん、いろいろ暖かいご激励、ご声援ありがとうございました。

久富 将位


コンド-・ヒロミさん(アマナ)
人を喜ばせ、楽しませ 「あの星」でも歌っている
 朝まぶしい日が差してくるとホッとする。どんとが「いった」朝はにじもかかっていたっけ。沖縄の朝の光はいろいろなことを思い出させ、忘れさせてくれ、昇華して再生の喜びを感じさせてくれる。
 どんとは二十八日、煙のようにいなくなってしまった。この人はどこから来たのだろう、といつも不思議だった。突然「どんと」という存在がそこにいたというような、きっと人を喜ばせ楽しませるために派遣されてきていたのだ。
 自作の曲からロック、レゲエ、フォーク、歌謡曲、沖縄の民謡まで大声で歌いまくりCD録音、音響、ラジオ番組、トークショー、絵や文、マンガも描き、人の何倍ものエネルギーを使い、何十倍ものエネルギーを休むことなく送り続けてきた。
 いつも汗かいて大急ぎ、そして任務が終わったので帰ります、とウルトラマンの三分間が過ぎたかのように、ピコピコ・・・シュワッと飛び去ってしまった。
 日本中に散らばっているそのエネルギーの微粒子は核となり、やがて芽を出して根をはり、大きな木になって笑う小鳥たちが大合唱するだろう。出会えたことを喜び、一緒に過ごした時に感謝し、残してくれたものを大事にしたいと思う。
 どんとは3本の名古屋ライブを全力で走りきり、家族でハワイに行った。沖縄の次に住みたいといっていた大好きなハワイ島で、そこにいることを許された最小限の人々の最大限の純粋な愛に包まれ、旅だった。
 私はすこしうらやましいと思った。そしてこんなやんちゃな使者が走ったら見失わないように追いかけ、倒れたら水を運び、うずくまったら肩をたたき、迷ったら耳をすませ、また立ち上がって走ったら声援を送りながら走り、もう帰りたいといったら騒がず、いつもの通り自然に優しく見送ってあげた家族のさちほさん、らき太君、なら君に、私からも「ありがとう」。
 こないだから耳の奥で鳴っているどんとのテーマ曲「どんとマンボ」はしばらくやみそうもない。♪おれはどんとマン 街で一番すごいやつさ・・・♪そして一年みんな忘れたころ、ふと気がついたらどんとマンがいない・・・♪するとあいつはもどってきたおみあげたくさん持ってね・・・
 きっと他の星につかわされてまた歌ってるはず。
2000年2月3日 沖縄タイムス(夕刊)より


前川守賢さん
沖縄と民謡を愛すロックも三線も
 「どんとさんが亡くなりました」という訃報が一月二十八日の午後、友人からの電話で届きました。特に体の不調など聞いていなかっただけに、ハワイでの突然の死に痛恨の思いです。三十八歳という若さで・・・。どんとらしくない、悲しすぎるよ。
 どんとさん(本名・久富隆司)は岐阜県の出身。京都大学を卒業した後、ロックバンドのロ-ザルクセンブルグ、ボ・ガンボスで活動。自ら作詞・作曲をし、ギターを弾く、とてもユニークなボーカリストでした。
 七、八年前のことが、昨日のように思い出されます。東京のライブハウスで出会い、沖縄市でのボ・ガンボスのライブを見に言ったのが親しくなったきっかけ。彼の世界は「沖縄民謡とは程遠いせかいだな」と思っていました。でも不思議なもので、何年かのお付き合いの中で「沖縄に住みたい。三線を習いたい。どこに行って習ったらいいかな」という沖縄への情熱がうれしくて、琉球民謡の工工四を教えたのは、どんとさんが家族で首里に引っ越してきてからのことでした。
 一曲一曲マスターし、レパートリーも増えたころ、沖縄、東京、大阪、千葉と一緒にライブをして、二人のコンビも「どんゲンバンド」と名付け、これからいろんな活動をしていこうと話していました。「人間何か行動を起こすためには、まず心から入っていかなきゃね」「心変われば運命変わる」「行動と環境が変わるから」と語り合い、民謡にも意欲的などんとさんが、沖縄人になろうとしていた矢先に、本当に切ない思いです。
 家族思いで子煩悩。人懐っこい人柄と妙に味のあるキャラクターは、誰からも好かれ、愛されました。全国に多くのファンと友人がうらやましい限りでした。私の公演のたびに、うれしい言葉をかけてくれたね、ありがとう。音楽を通しどんとさんと出会い、一友人として、惜しい人を失ったことは、とても残念でなりません。沖縄と民謡をこよなく愛した、どんとさんのご冥福をお祈りします。合掌。

 文中に出てくる「工工四」(くうくうし,くるるんし)とは、三線の、譜面で、縦書きで、漢字がズラ~と並んでるもので、とても、私たちの知ってる譜面とは、にてもにつかないようなものです。どんとは、元ちゃんに、これを、たった1度、30分ほど教わっただけで、読めるようになってたので、スゲ~!と、おもってました。
byちーこさん


忌野清志郎さん
 謎の譜面を君に送ろう。僕の最新の曲が書かれている。全音符と 4分音符と8分16分32分64分128分など算数計算のような5線紙の上に重大な秘密が隠されている謎の譜面を君に送るよ。所詮楽譜などでは音は聴こえてこない。音のすべてが割り算では解決できないのだ。人の心も同じだ。数学や計算では誰の心も説明できない。出来るわけがない。だが、おどろかないで欲しい。フェルマータの長さが何分なのか何時問なのか、何十年なのか人々にはわからないが君にはすぐにわかるはずだ。428小節のスラーの上がっていく感じが君にだけはわかるだろう。君のその透き通るような白い頬にひとすじの涙が流れるにちがいない。だってこの謎の譜面を理解できるのは君だけなんだぜ。わかるだろ?
 僕は月の砂漠に住んでインターネットで世界中の情報を手に入れるのさ。遠い地球を離れ、ひとりで暮らしてるんだ。思いつくままに曲を書いたり絵をかいたり字をかいたりマスをかいたり背中をかいたり恥をかいたり、色々かいてるのさ。ああ、早く君に会いたい。宇宙の星だけが僕の友達なんだ。地球の笑顔は僕を幸福にしてくれるよ。そーいえば、吉祥寺曼陀羅のところの三鷹楽器の隣の居酒屋で君と飲んだことがあったな。君は酔っぱらって僕に甘えたりした。覚えてるかい? 忘れられないメモリーだよ。あの時2人でボ・ガンボスをよく聴いていたね。独特のリズムがかっこよかった。どんとはまるでロックン・ロ-ルのグルみたいに光っていたな。しっかりした体格の若々しい男がグルーヴの中で踊っては歌っていた。あいつはロックン・ロール・グルだった。

 僕がどんとに初めて会ったのはまだ地球に住んでいる頃で、昔の渋谷のマックスタジオ。エレベーターの無いこのスタジオでは急な階段を重いアンプやギターやハモンドを人力で2階まで上げなくてはならなかった。リハーサルを終え、階段を降りていく途中で大きなアンプか何かが下から登って来た。「あっ、キヨシローさんだ。こんにちは。がんばって下さい」と、その楽器を運ぶ何人がかりかの中の一人が言った。僕は「おう。ここんとこ調子はど-だい。うまく事は運んでるかい」と答えた。当時、僕は初対面の人にもそのようなアイサツをよくしていたのだ。「ええ、ばっちりですよ」と答えたのが、どんとだったのだ。その時は知らなかったが、そのすぐ後にセブン・イレブンか何かのCM でよく見かけるようになったのだ。そのCMを見るたびに「階段で会った男だ」と思った。

それからすぐにどんとはローザ・ルクセンブルグからボ・ガンボスとなり派手にブレークした。いいバンドだと感心した。こんなバンドが市民権を得るなんて、いい時代がやってきたと思った。上っ面だけの芸能人の時代もいよいよ終わりだ。ざまあみろ。だが、もちろんそれは俺の独り合点のぬか喜びだったがね。まあ気にしちゃいねえさ。どんととはその後時々会うことがあった。いっしょに酒を飲んだりもした。イベントでいっしょになったり…。雰囲気のあるいい奴だった。俺の音楽の理解者だった。もっとたくさん会えば良かったが今はもう遠い。今年も年賀状が届いたばかりだというのに…。さようなら、どんと。安らかに眠ってくれ。
 僕はこの月の砂漠で昔のことを想い出しては笑ったり、時には涙を流したりする。ひとりぼっちとはいえ、なかなか人生は忙しいもんだ。
TV Bros.3月4日号 ”瀕死の双六問屋”より


Dr.Tosh 永井利充さん
どんとは意識レベルへとシフトアップした。
生まれ変わったんだ!
俺も毎日マジカル バースデー パーティを続行中!
もう少しこの世で宝捜し!
そのうちそっちで一緒にまた宝捜し!
さあさあ お祭りお祭り夢中遊泳しよう!

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【soul of どんと 2006 どんと紅白】 どんとの7回忌イベント。約30分の秘蔵ビデオ(ボ・ガンボスのライブ中心でちらっとプライベート・ショットも)上映に続きアフロヘアにベロスーツ姿の竹中直人さんに紹介されて、Dr. kyOn(key,g)、永井利充(b)、玉城宏志(g)、岡地... 続きを読む

コメント(3)

Mr.辛口 :

私日本人の音楽は無知なんですが
村八分とローザは共感できます。
何故か両方とも京都のBANDや
こないだ友達がローザのLIVE DVDを
持ってたんにはビックリや
京都には寺はたくさん在るけど
今音楽的文化はゼロやな。

Mongo :

Mr.辛口さま>

私のイメージですと
京都→西部講堂→刺激的音楽
っていう感じなんですが。
今は弱り気味なんでしょうか。

ローザの映像はうちにもあります。

tld :

チーコさん&UAで唄われた曲、
「波」というタイトルなのですか。
初めて聴きましたがフラエンジェルの
踊りとも合っていてとっても感動的でした。

どんとサイトのメッセージ、
保存していてくれてありがとうございます。

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