2012年3月アーカイブ

買取で何度もお世話になっている方にお声をかけていただき、
昨日、八王子へ。
雨が上がって、雪帽子を抱いた富士山がきれいに見えました。

いつも勉強させていただいている有難いお客様。
その方の言葉で初めて気づいたことがありました。
「2003年に始めたなら、もう10年ですか? 10年目に入ったんですね」と言われたのです。
自分ではまったく気づかず。ご指摘いただき、初めてそうなのかと気づきました。

10年目、、、、ですか。まだ10年目ともいえるし、もう10年目ともいえる。
いずれにしても、すでに9年やってきたのですね、古書店業を。
9年続けても、まだまだ、ぜんぜん・・・ですね。お客様と昨日会話していても、全集の名前や作家名がスムーズに口から出てこない。口から出てきたと思っても、すぐ間違えてしまう。
あれほど目録やネットで紹介しているのに、全集や作家名など、ふだん人と会話する機会がないためか失語症のような。本当に、9年やってきたのだろうか、と自分でも思う。あまりに情けない、、、。もうちょっと何とかしないとヤバイんじゃないだろうか。

何人もそういう人を知っていますが、話術や人柄で人を引きつけ本を売るような店に、うちはなれません。私のような人間は、ただただ、自分が信じているような良い本の力を借りるしかなくて。お金をかけるのであれば、家賃や人件費などでなく、とにかく仕入れにかけたい。何より、良い本を増やすことに力を注ぎたい、とずっと考えて、やってきたー実際そうしてきたつもりです。前号目録、欧州で集めてきた本をご覧いただいてもおわかりいただけるかしらん、と思うのですが。

「(1箇所にとどまらないで)動いていったほうがいいと思うよ」と
いうのは、先輩書店 R舎の言葉なのですが、
もしかしたら、ここらでちょっと動くかもしれません。

ちょっとだけ・・・。

これまで何度も何度も、店舗物件を借りようかどうしようかという機会はあったのですが、
そのたび実らなかったのだけど、、、。

あるときは、父親が地図を突如探し出してきて猛反対し始めました。周囲より海抜が低く、そこだけ窪地になっている、大雨のとき水没の危険があると。区のハザードマップを見て怖くなり、契約直前だったのにやめざるをえなくなり(あのとき迷惑をおかけした方、今でも申し訳なく思っております)。

あるときは、別物件で、過去に哀しい事件が起きたとわかり、断念せざるをえなかったり。

仙川の物件も、かなり本気で考えたものでした。

神保町の物件を借りようかと思ったとき。今日こそ不動産屋に正式申し込みをと思っていたそのとき、東日本大震災が起こりました。2011年3月11日のことでした。
神保町の物件のときは、相談してみたものの、先輩書店らに賛成してもらえず。駅近だったのですが、2階、なにしろ狭い狭い物件だったのです。
先輩たちの反対理由、その筆頭は「本の置き場所が(倉庫・自宅・店舗と)何カ所かに分散することになるよね。それだと在庫管理しにくくなる」というもの。ほかに「ものすごくうまく買わせようとする猛者が買取してくれと、次々、本を持ってくるよ。あなた、ちゃんと対応できるのかな」と釘をさされて、ちょっと自信持てず、というのもあった。

店舗をやれば、お客様が来てくださるなどとは考えていない。金曜にも神保町のとある店で「ずっと目録でなんとかカバーしてきたけど、外国文学はキビシイ。最近は大学も買ってくれないし。経費を考えると毎日コンスタントに3万ずつ売っていかないといけないんですけど、毎日3万ですよ。毎日って、そう簡単じゃないですよ。完全に赤字です。市場で仕入れることもできない」と言われたばかり。
目録中心にやっていくスタイルが自分に合っていると、今は考えている。
だから、今のスタイルはあまり変えたくない。だけど、現物をご覧になりたい人のために、その気になったらお手にとっていただける事務所あるいは店舗のようなスタイルには近付けたい。
営業するとしても週末ぐらい、あとはアポイントメント・オンリーになると思う。だから、家賃はさほどかけられないのです。今回、内覧している物件、そういう使い方に割合マッチングする。路面店の1階だけど階段5段のぼらないと入れない。わかる人にはわかる、行きたい人は行ける、ぐらいの場所が、うちのような専門店には合っていると思う。多少手をかければ割とすぐ使えそうだし、間取りが案外使いやすい。家賃もちょっと予算オーバーだけど、ものすごく無理しなければならないほどではない。一緒に内覧して「案外よさそうじゃない?」と聞いたら、いつも反対する連れが今回は否定しないのだ。

いずれにしても、自分が借りるなら、古書市場に近い神保町か、あるいは自宅そばと考えてきた。
まさにその自宅そば、のほう。今よりずっとずっと駅近く。ひょんなことから、希望に近い物件があることに気づいた、というわけです。今借りている倉庫の契約更新が5月末に迫っているし。さて、それでどうしようと。

倉庫に詰めたままの本、放っておくとどんどん詰めて、そのままになってしまう。
一度、別の場所に入れ直して、余分なものは処分&必要な本にきちんと棚番号などふりあてて探し当てられるようにして収納し直さないと、と常々感じてきた。そのためには、引っ越しが最適と思われる。
昨日、再び内覧にいきました。倉庫に置いている書棚と同じサイズの新聞紙を置いて、うちの書棚がとりあえずすべて納まるであろうことも確認ズミ。
年とったせいか、性格のせいか、移動することが億劫だ。今のままでも悪くはないのだ。ううん、面倒で仕方ない。エネルギーがしぼみぎみ。
ともすると、今のままでいいよ、やめよう、となりそうでもある。だけど、やるなら、体と気力があるうちのほうがいいかもしれない。

候補となっている物件、長所もあるが、短所もいくつかある。道幅が狭く交通量が多いため、すぐ前に車をつけにくい(搬入搬出をしにくい。今現在、入力ズミの本は、歩いて1分の倉庫へ持っていけば済んだ。もし引っ越したら、自宅から徒歩15分ほどのそこへ本を持っていくだけでも案外大変そう。近くにコインパーキングはあるのだが、なにせ車を前に数分程度しかとめておけそうにないので、基本、いちいち歩いて持っていくしかない。たくさん歩けて運動になっていい、と考えるしかない)。
充分な広さがない(ぎりぎり、今の在庫分を納められるぐらいの面積)。通気がどうだろうか(きのう、窓をすべて開け放って観察した。どうしても空気が回らない箇所があるが、エアコンか扇風機でなんとかするしかないだろう)。
引っ越すとなったら、たぶん1か月は準備が必要。目録の発行が遅れます。とあるイベント参加も難しくなるかもしれない(金曜、とある人にそう告げたら「えーーっ、海ねこさんやらないなら僕もやらないよ。海ねこさん"緩衝材"なんだからやってよ、やってよー」と言われた。えーーっは、こっちの台詞ですよ。緩衝材ってなんだよ、いじりやすい便利なヤツとしか思われてないなあ。うううん)。

自分のことを、いつも思いつきばかりでエイヤっと行動してしまう自己中心的、非常に衝動的な人間、と思っていたのですが、最近なんか違うかもと。ずいぶん迷ってばかりの人間なんだなあと、最近は思う。そして、人目ばかり気にして、主体性がないよなあ案外、というのが自己評価です。
まだ何も決まってないのに、あーあ、書いてしまった。古書店を始めた頃も、組合に入るかどうか迷ってる頃も、ここには書いてきました。古書店としての自分をこの場をお借りして記録し続けているつもり。ときどき、古書店をやりたかったのか、あるいは、「古書店をやってみる自分」をやりたかったのか、あるいは、「古書店をやってみる自分」を記録したかったのかと考えることがあります。

まあ、いずれにしても行動しながら考えていく以外できないので。

さて、どうしようかなあ。どうなるのかなあ。

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ブログを書くのは、久しぶりです。
「ツイッター愛読しております」なんてお客様に仰っていただくと、
いつも適当なことばかり書き散らしているので、
有難いやら、お恥ずかしいやら、ですが。
たまには、書く機会も必要ですね。

0時を回りまして、年齢覧に年齢を書き込むとき、
サバを読まずに書くのであれば、10の位の数が変化することになります。
いやもう、調べていただけばすぐわかることですが、
ン十代を無事に終えまして、
新たなン十代に突入しました。

まさか自分がそんな年齢になるとは思いませんでしたので、昨日は認めざるをえないのだなと。苦いというか切ないというのか、結構、衝撃的な気分でした。
ですが、まあ、なってしまえば、昨日と今日の境目をこえたというだけのこと、時間はただ普通に流れていくだけです。
当たり前ですが、特別、何も変わりません。

同学年に日月堂さん、堀内花子さん、それから私のクラスメイトたちと、
敬愛している人たちが大勢いるので、なんとなく大丈夫、やっていけそうな気分です。
松田聖子さんも同学年。ああ、簡単に調べられちゃいますね。いいです、別に大丈夫です。

20代のころの誕生日といえば、
月刊誌の入稿の頃にあたっている時期が長かった。
今思えば懐かしいことですが、飯田橋の製版会社近くのファーストフード店でイラストに番号をふって
活版ページの凸部分(版下)の指定など地味にしていた記憶があります。いつもギリギリに入稿していたので、自力で製版会社に入稿しにいかないとタイムリミットという状況でした。今でも、ときどき、ああ、レイアウトもまだ依頼していない、イラストレーターにイラストを依頼しなければ間に合わない時期なのにどうしよう、とアセる夢を見ます。いつだって、締切ぎりぎりになってしまう性格なのです。

製版会社近くのファーストフードで過ごしていたときの心情を、昨日のように思い出します。
「誕生日に仕事ができて幸せだ。
そう思うことにしよう。
いや、実際そうだよな。健康で、仕事をすることができて、有難いな」と、
センチメンタルな気分で、赤ペン握ってました。
大学四年のときから編集補助の仕事をさせていただき、
終始フリーランスでしたので、実際のところ、仕事があるというのは有難いことでした。

私の20代30代は、フリーでも仕事がたくさんありましたし、
もう本当に、よく働いて、よく呑んでいました。
夜中まで働いて、朝まで呑んで、といった日々でした。
某・大手出版社近くの坂にあった中華料理店には皆でよく行きましたし、
恵比寿の朝までやっている居酒屋でも屋台でもよく呑みました。
音羽方面に通っていた頃は、電車で帰るときは新宿ゴールデン街に立ち寄りましたし、
タクシーで帰るときは、外苑西通りだっけ? 先日、
ハルミンさんやbukuさんも行っていたというお店によく行っていました。
なんだったかな、数字がつく店名でした。

あの頃、自分がライター・編集以外の仕事をするなんて夢にも思っていませんでした。

40代は(ああ、書いちゃいました)なんだか流れから古書店業を始めてしまって、
どんどんハマっていって・・・。
ライター・編集の仕事をふっていただくたび、兼業が自然なことと考えて
最初のうちはお受けして単行本のゴーストライターなどさせていただいたのですが、
そのうち、次第に古書店として需要があることを認識。

私が主に関わっていた雑誌やムックは、若い人向けが多かったです。
気づいてみたら、仲良くしていた社員編集者は出世して管理職になり、あまり会えなくなりました。
次第に、仕事相手が若い編集者になっていき、先輩ライターはもうほとんど残っていませんでした。
アイドルの誕生ヒストリーなど名文で読ませており、限りなく影響を受け、尊敬していたライターさんがいたのですが、その方が辞める辞めると言いながら、本当に実行されたときは正直ショックでした。
勿論、人にはそれぞれ事情があって、ただ続ければいいというものでもないのですが、いつか追いつきたいと奮闘していた相手がパタリといなくなってしまって・・・。オチさん、お元気でしょうか? 呑んでらっしゃいますか?

20代の途中、同じ人物に長期間取材をし続けることに憧れて、アイドル誌の仕事をさせていただき、実際に願いがかないました。そのアイドルがその雑誌を卒業すると聞いて、ツキモノが落ちたというか、燃え尽きてしまった感はありました。
著名な方のインタビューに行かせていただいたり、不登校や闘病に悩む人のもとに取材に行ってお話を聞かせていただいたり、いろいろな仕事をさせていただきました。ぜひマガジンハウス系の仕事をしてみたいと憧れて売り込みにいった時期もあります。自分を頼ってくる元アイドルを何とか売り込みたくて、あちらこちらに企画を売り込みにいった時期も、あるいは、ジャーナリスティックな仕事をしたくて自費で小笠原に通い詰めていた時期もありました。ムック丸ごと1冊、単行本あるいはシリーズものの単行本セットものを丸ごと任せていただいたりもしました。ホメられオダてられて、ほいほいどんな仕事も引き受けて、納期がきつくてもやり遂げてきました。しかしながら、次第に「ーさんでなければ」と言われる機会が減って、依頼の電話が減ってやしないかと認識したときは、切実でした。仕事が途切れそうになっても、必死に起死回生しては逆に前向きになってきた自負があったのに、、、。本当に自分がやりたいのは何だろうと思うようになり、絶対この仕事でなければという執着もなくなっていったのが不思議でした。ああ、自分は何をしたいのだろう、何をすればいいのだろうと。そんないい加減な気持ちのまま、続けていったらいけないのではないかという気もしていました。

いつだって、流れにのって、ふわふわ漂ってきましたが、
今も変わらないですね。
だけど、周囲といいますか、お客様、同業の先輩・同期・後輩、
さまざまな方のおかげで、ちょっとは覚悟が決まってきたというか。
ライター時代もいろいろな方にお目にかかれましたが、この仕事も、本当にさまざまな方に接することができます。さまざまな方の蔵書・生涯そのものと接する機会も多く、体力・気力が許す限り、そして、必要としてくださる方がいらっしゃる限りは続けていけたらと。
そもそも、本や編集が好きな自分にとって、古書店というのはまさに「本」であり「編集」そのものです。膨大にある本の中から選んで構成していく、古書店そのものが「編集」のような仕事です。自分でホームページや目録を作れば、文字数を気にしないで、いくらだって文章を書けますし、ご興味がある方に読んでいただけます。自分がやりたいことは大体できます。編集・ライター出身の古書店が多いのもナルホドです。高齢の同業者もバリバリ頑張っていらして、私などまだまだ若輩。

まあ、とにかく、仕事をさせていただけて、
何も変わらない日常が過ごせるというのが、どれほど幸福なことかと思います。

そんなこんな。誕生日に感じることは、あら、20代の頃とほとんど同じなんですね。あまり進歩がありません。
ですが、まったく同じかというと、微妙には違って。それなりに感慨深くもあります。
この先、残り時間がどのぐらいかと考えざるをえないなと。15日は咲き誇る梅を見ながら歩いていて、ああ、こういうことを思う年齢なのかと思いました。あと、どれぐらいあるのだろうと。
「カーネーション」を見ても、自分の親を見ていても、カラダの自由がきくのはまあ良くて七十代までだろうと思う。そうなると、もうあと10年、20年。運良く健康・さまざまな状況が保たれたとしても、本当にそれっきりで終わりです。
あっという間だろうな。10年、20年前の自分を思い返してみれば、本当にあっという間だろうと予測がつきます。

40代で亡くなった友人、先生、東日本で大変な思いをされた方々、
いつか私もそちらに行きますが、もうちょっとの間、
この世に必要としていただけるうちは、
こっちでやってみますよ。

役割というのは、人にとってとても大事なものですね。
病気やケガ、あるいは年齢や環境によって
仕事を見つけられずにいる人の苦しみたるやいかほどかと思います。

皆様、いつもありがとうございます。

ああ、久々だというのに、
たいしたことは書けませんでした、やっぱりな。

今いちばん欲しいものは、某国に行くための航空券と
自由に仕入れられるだけの資金・時間・健康・体力です。
次の目録を作ってから、某国の絵本をみにいくか、
それとも某国の絵本をみて仕入れられてから次の目録を出すのか。
ちょっと試案中。

え、何? 連れが、わーぎゃー、大騒ぎしています。ねこがオイタしたらしい。
かくして、くだらなくも面白い日常は続いていきます。
そうはいっても誰にとっても日常とはエンドレスに続くものでなく、
いつかパタリと途切れてしまいますんで。
こう言っていたのは、遠藤周作さんではなかったかな、
「死というのは、いつの間にか崖から足を踏み外して落ちるようなもので、あるとき突然はまってしまう。絞首刑を受ける死刑囚の足下の板があくようなものではないか」と。自分が死ぬとき世間が明るい光に満ちあふれて、人々が楽しそうにはしゃいでいるのかと思うとやりきれないと書いていた遠藤さんも、とうにあちらへ行ってしまいました。
でもまあ、いつ何時、終わりがきてしまっても問題ないぐらい、何とか納得いくようにやっていかんとね。よし、これでいいんだと思えるぐらいまでは、何とかやっていきたいです。
今までありがとうございます。
今後とも宜しくお願い申し上げます。

わわ、フェイスブックしばらく放置していたら、書込をいただきました。ありがとうございますー。

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