2008年もよろしくお願いいたします

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ブログでは年頭初のご挨拶になります。
本年もよろしくお願いいたします。

年賀状をいただきました方にも、
まだ返信ができないまま失礼しております。

都内病院で2度めの手術を受け、闘病生活を続けていた義理の叔父が
年末12月30日、逝去。
年始1月2日に故郷で通夜、3日に告別式となりました。

2度めの手術前、手を振って見送り、
麻酔から醒めれば話ができると信じていた家族。
それなのに、手術をしたのとは別の箇所で脳内出血が起こり、
意識は戻らないままとなり、家族の苦悩の日々が始まりました。
自発呼吸がほとんど見られなくなり、
「早くて3日、長くて1週間」と突然告げられた家族。
愛する人と別れなければならない苦しみ、たるや・・・。

叔父家族は生涯、転勤族でした。
だからこそ、かもしれないのですが、
出会った人とはすぐーー山手線や中央線の隣の席になった人とでさえーー
誰とでも気軽に話をするような人でした。
連れと結婚することになったとき、
田舎の親戚には「都会の女に騙されて?」と心配する人もあったようですが、
もっともフランクに笑顔で接してくれたのが叔父でした。
そんな叔父でしたが、転勤族ゆえ東京周辺にいる親戚は限られていたため、
せめて家族の話を聞く相手にでもなれればと、私たちはなるべく病院に通いました。

私なんかのこのこ行っていいの? と何度も思いましたが、近しすぎない半ば第三者のほうが叔母たちも気楽かもと自分に言い聞かせて。

何度も思い起こされたのは、
1度めの手術のあと、顔面の半分が麻痺していたため、
食事をぼろぼろこぼしながらも、なんとか食べて食べて生きようとしていた叔父の様子でした。
農業のことばかり考え続け、
その日も農薬問題を熱く私たちに語っていました。

そして、一縷の望みにすがりついてでも、
なんとかならないかと苦悶し、
何をどう考えればいいのか、混乱しながらも模索し続けていた家族のさまが
目に、耳に、焼きついて離れません。
意識が戻らない叔父のそばで、
「お父さん、頑張ってるね。頑張って偉いね」と、体をさすり続けた家族。
個室に移動できたこと、体のあちらこちらから出ている管を
とある看護師さんがきれいに整理してまとめてくれたこと・・・
ささやかな希望の灯であっても
「よかったね」「うれしいね」と愛しみながら、家族どうし励ましあっていました。
人工呼吸器を使っていたのですが、自発呼吸がときどき混ざるようになり、
「このままなんとかもってくれれば」と信じようとした家族。
最期の最期まで、「お父さん、意識がなくてよかったね。
意識があったら、熱くて、苦しくて、本人が耐えられなかったと思う」
と言い続けていた家族。

何が大事なのかは、よくわからないけれども、
人に与えられている時間は実に有限であって、
その日がやってくるまで、
わが道を這いつくばって進んでいくしかないのでしょうね。
いったい、自分に何ができるのかな。何もできないのかもしれないね。

いまだ私は混沌とした気持ちのままですが、
三が日を過ぎたことですし、ここらで、ちょっとだけ書いてみました。
経過は、連れがブログに綴っています。

そんなこんな。

相変わらず呑めば陽気になるコンコンチキっぷりを
すでにどんじゃか発揮している私ですが、
本年もどなたかに喜んでいただき、
自分自身も楽しくいければと願っております。

ああ、ついに美容院にも行けずじまい、明るい洗面所に行くたび白髪が目立つよ。
なにとぞ、よろしくお願いします。

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