絵雑誌「金の船」をつくった男(長文)

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悪天に加え、バスの座席に余裕がなかったこともあり、山行きは中止。

月曜倶楽部の目録の締め切りまで何日もない。
今のままで注文をいただけるのかどうか不安になり、
倉庫で目にとまった絵本を持ち帰った。
井上洋介、堀内誠一・・・検索してもデータがほとんど見つからず、
どう値段をつけていいのか分からず、悩む。
さらに、至光社のハイレベルで、しかも見たことのない絵本が何冊か。
値付けに悩み、自家目録用に保留とする。

ネットで調べられることより、調べられないことのほうがずっと多い、と最近思う。
R舎さんのようにキャリアも勘もないので、
初対面の本を手にすると、その本がどういうものなのか、まずは調べる。
調べたうえ、さらに古書の状態など鑑みて、自店で売る場合の値段を決める。
値段を決めるためにも、いろいろ調べる必要があるのだ。
あまり思いを入れずに売るほうが良いという意見もあるだろうが、
自分としては、まったく分からないものは扱いにくい、
出来れば多少なりとも学んだうえで扱いたいという思いもある。

ここ最近、自家目録用にと入力していく中で、画家のクレジットが入っていない2冊がひっかかった。
昭和2年、そして、もう1冊は昭和3年に出版されたもの。
「金の船社」編である。
この絵のタッチは、見たことがあるような気がする。
確認するため、あれこれ調べる。

「『金の船』ものがたり」(小林弘忠 毎日新聞社 2002年)という本を、
以前、古書市場でたまたま購入し書棚にしまいこんであった。
そうだ、あの本を読んでみよう。
思い出して引っ張り出した。
うーむ、面白い。早速、夜半から朝方までかけて一気に読破。

「野口雨情、本居長世を世に出し、童謡歌手第一号を生んだ児童雑誌『金の船』。
その創刊と盛衰を描くーー」(帯 より)

戦前の絵雑誌には、しばしば童謡の譜面が掲載されている。
譜面があるなあとずっと頭に片隅にあったのだが、
なぜ童謡なのか、童謡がしばしば取り上げられているのか、本書を読んで謎が解けた。

大正時代、童謡を広めて、雑誌のカラーの主軸として
童謡を推していこうと考え、実行してきた人たちがいたようだ。

そのひとり、名前は「斎藤佐次郎」という。
「『金の船』ものがたり」は、「金の船」(大正8年11月創刊)の創刊者として、
児童文学誌に青春を賭した編集者・斎藤佐次郎の生き方を軸に綴られている。

斎藤佐次郎(以下、佐次郎)、もともと編集者を志していたわけでもなんでもなかった。
たまたま細君どうしが知り合い(それも銭湯で!)、
「ナカヨシ」という雑誌の発行者だった横山寿篤を紹介された。
佐次郎は父親が商売で成功したため、土地・資産を手にしていたのだった。
横山は融資を頼みがてら佐次郎に会い、児童文学誌を作るよう薦める。

佐次郎、当時25歳。
雑誌作りをしていくうえではほぼ素人だったのだが、
やるなら当時トップランナーとして突っ走っていた鈴木三重吉「赤い鳥」を目指しつつも、
なんとか違うものを作りたいと祈願した。
高き志を胸に秘め、謙虚に、かつ情熱的に作家・画家のもとへと原稿依頼に通うさまが
いきいきと綴られていた。
当時、「児童文学」に挑戦することが、作家や画家たちの間でちょっとしたブームだったらしい。
それなりの理由から断る人もあったが、佐次郎の誘いにやってみようかなと思う人が大勢いた。

野口雨情(当時37歳)も、当時まだ無名だったのだが、
人を介して佐次郎と出会い、終生付き合うことになる。
そして、数々の名だたる童謡を世に送り出すことになるのだ。

当時、学校で教えるのは「唱歌」であり、
童謡は邪悪だとばかり封じ込めようとする教育者がいたころである。

野口雨情の人物像が傑作だった。
やたら立ち小便をし「田舎まるだし」だが、あつき男である。情に熱く、人望厚い。
「十五夜お月さん」「七つの子」「青い目の人形」「俵はごろごろ」など、私たちの知っている童謡たちは、ふたりの出会いなしに生まれなかっただろう。

岡本帰一との出会いも描かれている。
雑誌発行を決意したとき、佐次郎は、どの画家にどのような絵を描いてもらうのか悩んだ。
清水良雄が描く「赤い鳥」の表紙、挿絵は時代に合ったハイカラ絵画で、雑誌の基調とぴったりだが、
佐次郎は、むしろ牧歌的なあたたかみのある絵がよいのではないかと考える。
「斬新で土のにおいがするもの、新時代を感知させながら幻想的で、
想像をかきたてる絵がいい。画家は慎重にえらばなければならないだろう」と。
雑誌発行を決意して、童話を読みあさりながら、
たまたま読んだのが冨山房の「模範家庭文庫」。
そのなかの「グリム御伽噺」の装丁と挿絵をみて、これだ! と確信する。
「大胆な描写ながら奥行きがある。空想がひろがる。
線の運びが繊細で、絵がうまい。
この画家ならきっといい表紙と挿画を描いてくれるにちがいないと直感した」

当時、岡本の家は、路地裏のわびしい借家だった。
実家は裕福な家に生まれたにも関わらず、結婚を親に反対され、貧しい借家暮らしだった。
すべての仕事を蹴って、「金の船」に専心した岡本。

雨情と並んでの功績者であり友人であると佐次郎は思っていたが、
その岡本がやがて、「コドモノクニ」に引き抜かれてゆく。
「金の星」専属画家であり、創刊号から約三年間ひとりで表紙、口絵、挿絵、飾り絵を描いてきた岡本帰一。
たまに「コドモノクニ」にも絵を送ることがあっても、佐次郎は黙認してきたのだった。
他誌に描いてほしくない、が、もっと活躍の場をもってほしいと、佐次郎は複雑だった。
とうとう、大正12年1月号を最後に「金の星」を去る岡本帰一。
前年11月、東京社によって創刊された「コドモノクニ」の絵画主任に迎えられたのだった。
佐次郎は引き留めたかったが、画家の将来を思うと、そうも出来ない。
無念。

その前には、雑誌創刊のきっかけとなった横山とのゴタゴタで
「金の船」は名義変更、「金の星」に書名変更という緊急事態に直面する。
大正11年、出版部を設ける。10月号に出版部創設の社告を掲載。
出版部が初めて出したのが「金の星童謡曲譜集」第1集、第2集(野口雨情・作。本居長世・作曲。岡本帰一・装丁)。
翌12年2月、「少年少女の童話読本」(沖野岩三郎・著 岡本帰一・画)を出版、
3月、「童謡十購」(野口雨情・作 石井鶴三・装丁)を出版。
ところが、関東大震災により、
友人・小絲勝次郎と共同で始めた下谷元黒門町の出版部は全焼。
在庫の出版物はすべて焼けてしまった。出版部は、書籍6点を発行しただけで解散、という憂き目にあう。
解散を余儀なくされ、翌年、佐次郎は金の星社独自で児童出版物を出すようになる。
小絲は同年、金の星社の「金」の字をもらって金襴社を興す。

大震災後の物価急騰。
ひところは売れて売れてたまらなかったのだが、すでに雑誌を発行すれば累積赤字は増える一方となりつつあった。
なんとかもちこたえなければと、佐次郎は「金の星」存続を賭けて出版部の再起をはかる。
出版物で得た収入を雑誌に投入しようという算段だった。
大正13年から次々「童謡集 青い目の人形」(野口雨情)「日本の児童と芸術教育」(沖野岩三郎)など出版。
版を重ねていくが、大正末期、大きな変化の波が出版界に押し寄せていた。
大手出版社による返品自由の「キング」創刊、円本ブームなどだ。
トップランナーだった「赤い鳥」がついに力尽きる。

出会いと別れ、雑誌の隆盛、盛衰・・・。
ご興味のある方は、ネット上でのこのような駄文でおしまいにせず、
ぜひ「『金の船』ものがたり」をご購入のうえ、お読みいただきたい。

金の星社はその後、倒産の寸前に救出され、驚くことには今日も続いている。

海ねこの手元にあるのは昭和2年、3年の金の船社・編の2冊である。
昭和2年の「にっぽんいち・ひらがなおとぎ」は発行者「荻田卯一」
発行所は「資文堂書店」(麹町区飯田町2-3)となっている。
昭和3年発行の「小学一年生の童話」は編者「横山銀吉」
発行所は「資文堂書店」(麹町区飯田町2-3)とクレジットされている。
「横山銀吉」とは、金の星と別れてからも雑誌「金の船」を続けた横山寿篤の別名か、
あるいは近親者なのであろうか。どなたかご存じでしたら、ご教授いただけましたら幸いです。

それにしても、すでに専門ジャンルとして取り組んでいる先輩書店も多く、
なるべく遠ざけていたかった1920年代30年代、やはり避けては通れないようだ。

引越シーズン、片付けものシーズンのようで、買取のご依頼が何件か。
申し訳ないが、諸事情により、お断りすることも少なくない。
以前からお約束させていただいていた分は勿論、お伺いする。
「金の船」が漂い続けた流れと重ねるのはおこがましいが、
海ねこは何処へ漂っていくのだろうか。
感傷的な思いを吹き飛ばすかのように、いくつか新たなご注文をいただく。
外は雪。足元に気をつけてお出かけください。

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