夏の渋滞

| コメント(3) | トラックバック(0)

先週、海ねこで扱いにくいものを市場に出品したが、結果はいまひとつ。
作戦を練り直して再度、出品した。
神保町の古書会館では曜日ごとに集まる本ややってくる人が異なるのである。
今度こそどうにか買っていただけますようにと祈りつつ、
また売れなかったら今度はどこに持っていこうかと
搬出のことを考えて車で出かける。

高速道路は渋滞。一般道で行くがやはり行き帰りとも渋滞。
3つ出品し直して2つは他店に買っていただき、ありがたい。
おかげで帰途はちょっと気が楽になった。
が、渋滞の中の運転はやはり疲れる。
体がというより、神経が。目が。
新宿御苑の地下のトンネルも渋滞。
帰宅して発送・受注をやらねばと思いながら
疲労で、しばしぼーっとしてしまった。
真夏は働くより、休むほうがいいようだ。

市場で売るのもよいが、やはり何よりも海ねこで売りたいし、
海ねこのお客様に買っていただけるものを仕入れていかないといけないなあ。
しかし、ときに海ねこ向きでないものを市場で売りたいときもあるので、
市場への出品にも慣れたほうがよいのだろう。
プロ相手なので、そうそう楽ではなさそうだが、
皆さん、あれやこれや工夫しながら出品なさっているようだ。
はじめから苦手だからと尻込みせず、少しずつ慣れていくしかないのだろう。

それにしても猛暑の東京である。台風接近で雨になる予報です。

硫黄島の報道番組、食事しながら見る勇気がなかった。
が、録画してあるので、いずれ見ると思う。
いつかこの件については書きたいのだが、硫黄島からは目を背けられない。
報道ステーション、広島・長崎で被爆した90代の男性の言葉に打たれる。
「戦争体験のある生き証人がこの世から次々にいなくなったら、
きっとまた戦争になるんだろうね、私たちが生きているうちかな」と言ったら、
「すでにもう戦争になってるよ」と夫が言った。
呼び名に対するこだわりはさほどないので、
夫と書くことにします。夫、もしくはオット、連れ合いといったあたりで。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.omaken.com/mt-cgi/mt-tb.cgi/4564

コメント(3)

海ねこさんこんにちは。

もう、何年もかけて[家人]で読み慣れていますから、海ねこさんを中心とした海ねこ家の空間的イメージが頭の中で出来上がっていました。海ねこさんにはどことなく『良人』を[家人]に置き換えての表現が釣り合いが取れてホノボノしていました。~急に[夫]になると、いきなり俗っぽくて、違和感ってな感じでがしないでもありません、どことなく普通のようで普通に甘んじない姿勢が海ねこさんらしさだといつも感じています。

硫黄島は太平洋戦争の中で唯一、米軍の死傷者が日本軍の数を上回ると言う日本軍の激しい抵抗が行われた玉砕の島・・・もうすぐ8月15日ですね。海ねこさんが世界のすばらしい絵本や童話を紹介しているように、寅の子文庫はあの忌まわしい15年戦争の記録をコツコツと集めていますよ。

暑い最中、お身体ご自愛ください。

どうして硫黄島のことが気になるのですか。
ちょうど数日前に「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」を読み終えたばかりなので。
そういえば今度イーストウッド監督で映画になりますね。

寅の子文庫さん、書き込みありがとうございます。
ご指摘の件、ちょっと考えてみます。

コクテイルさん、
なぜ、その本なのでしょうか。
なぜ読もうと思ったのか、それが知りたいです。

硫黄島の本は、我が家にもいろいろあると思います。

一言では語れないのですが、
硫黄島に生涯をかけた人と
お知り合いになる機会があったので。
その人は、軍人ではなく、
元島民だったのですが。

あまり知られていないことですが、
硫黄島にはもともと島民がいたのですね。
ところが、戦況が厳しくなると
男性は軍属として残され、
女性やお年寄りは強制疎開を命じられた。
家族がひきさかれた。島民はばらばらになり、
島民らが築き上げてきた文化は中断された。
その人は、お兄さんやいとこ、同級生を
硫黄島でなくした。

小笠原でも、父島・母島の元島民らは
戦後しばらくして帰郷を許された。
しかしながら、硫黄島の島民は
帰郷どころか、一時帰郷さえ許可されない。
火山の隆起活動が激しいため、
危険だからという理由から。
しかしながら、自衛隊の基地はそこで
日々、訓練をおこなっているのです。
米軍の訓練に協力しているのです。

いたたまれない思いから、彼は
少しでも硫黄島の近くに住もうと
父島に居を構えた。
少しでも硫黄島に通える機会を
持とうと、遺骨収集にはせ参じてきた。
過酷な環境で、彼の体はしだいに蝕まれ、
心臓発作に備えてニトログリセリンを
胸元のペンダントにしのばせる身となった。

家族や周囲からどんなにとめられても、
彼は硫黄島に通い続けた。
あとかたもなくなった故郷のことを
あきらめることをしなかった。
なくなった島の文化を、
忘却のかなたに葬られそうな元島民らのことを
世間に知ってほしかった。

ただ机上で思うだけでなく、
あの手この手で努力し続けてきた人。

「努力し続けてきた」と過去形になってしまうのは、
その人が比較的最近、お亡くなりになったからです。
しかしながら、彼の思いは生き続け、
必ずや受け継がれていくことでしょう。

また機会があれば、いつか少しずつ
書けたらと思います。

コメントする

2012年4月

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

最近のコメント

アーカイブ