西荻ブックマーク 沼辺信一トークショー

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西荻ブックマークの沼辺信一さんトークショーへ。
ちょっと早めに着いたので、久々に音羽館へ。
市場でよくお見かけする人の店へはなかなか行きにくいのだが、
ああ、やっぱりいいなあ、音羽館は。
何冊か購入させていただく。幸せ。

沼辺さんは「準備する時間があんまりなくて」と謙遜されていたが、
始まってみたら、ご自身の中から言葉が泉のようにあふれ出す。
話せば話すほど表情がイキイキして、調子が上がっていく沼辺さん。
個人的には絵本の読み聞かせ口調がかなり好きだった。

大きく3部構成。
Part 1 絵本とともに暮らした50年
Part 2 日本にもたらされたロシア絵本 1927-1936
Part 3 日本ブームに沸くモスクワ 1925-1929

Part1は、子供時代、絵本とどう出会ったか。
1952年生まれの沼辺さんが幼少時から
お父様の蔵書だった小学生全集、日本児童文庫を読み聞かせてもらった思い出、
村山知義による挿し絵との出会い、恩地孝四郎の表紙への思いなど。
リアルアイムですぐれた絵本、児童書に出会う体験はあまりできなかったが、
8歳年下の妹さんのために読書指南するようになり、
そのことによって自分自身も楽しみ、すばらしい読書体験を積んだこと。
1965年1966年、こどものとも黄金時代をリアルタイムで体験できたこと。
中学時代、図書館で借りたナルニア国物語に熱中。
1967年、岩波書店から出版されたアーサー・ランサム全集をむさぼり読んだこと。
「トムは真夜中の庭で」(フィリパ・ピアス)、
さらには学研の「少年少女新しい世界の文学」シリーズ、
レオ・レオーニに出会ったこと。
いずれも日本語版が出てすぐ、つまり初版で読んでいたこと。
やがて、フィリパ・ピアスの未訳本を原書で読んだこと。

Part2は、1920年代後半から30年代、
ロシアの絵本がどのようにして日本に入ってきたか。
(ごめんなさい。長くなってしまうので、ここはあえてはしょります。
どなたかご紹介お願いします)

Part3は1928年、歌舞伎の興行がモスクワで行なわれた話から始まり、
一体どういう展開になるのかと思ったら…。
私がここで簡単に書くと薄っぺらくなりそうで困るが、
詳しくはほかの参加者がどこかで書いてくれると思う。
危険を承知のうえ、ここでは「速報」ということで失礼して、
かなりラフに述べてしまいます。
間違いがありましたら、どなたかご訂正いただけましたら幸いです。

ロシアの絵本が一方的に日本に入ってきただけではなく、
日本の文化がロシアに入り、
なんと日本の児童書・絵本がロシアで読まれていた時代があったという。
それも「長い名前の子供」という日本ではさほど知られていない話が、
1929年、モスクワで絵本になって出版されている。
沼辺さんはこのあたりの経緯を突き止めるのに苦心して1年かかったということ。

双方向の文化交流があった時期があったーー
その確証をつかむため沼辺さんが身銭を切り労力を費やして、
ついに突き止めたのは・・・・・・
1928年、英語でいえば"Japanese Childrens Exhibition"なる展覧会が
ロシアで開催されたという記録だった。

なんと! このときすでに浮世絵、日本の人形、おもちゃなどとともに
日本の絵本、児童書1450冊(!)もが出品され、
ロシアの人々の目に触れていたのである。
むろん、ロシア、日本ともに熱意を持って動いた人たちがいたからこそ
実現したわけで、その詳細を沼辺さんが語った。

沼辺さんはつい最近、この展覧会が行なわれた「あかし」を
ひょんなことから入手した。
それもある古書店がロシア語がわからず、
捨てるに捨てられずにいた、いわば古い紙ものの束が
まわりまわって沼辺さんのもとへやってきたのだ。
その中から出たきたものは、長さ1メートル余りのポスター。
おそらく、当時、モスクワの街中に貼られたであろう
展覧会の宣伝用ポスターだった。
いろいろ調べ尽くして確かに展覧会があったのだとは思ったけれども、
まさかそんなリアルなものを手にするとは。
思わず、膝がヘナヘナっとなってしまったのだという。

驚くことには、展覧会が開催されたといいうことは
ロシアでも日本でもまったく忘れ去られていた。
1936年ごろからロシアにおける情勢が厳しくなり、
日本人と交流があり、日本人と文通をしていたというだけで
スパイ容疑をかけられ、本人は銃殺、
配偶者はシベリア送りといったような社会になっていく。
さまざまな人の尽力のもと展覧会が開催され
文化交流がなされていたという事実は
歴史のカーテンの片隅に追いやられ、忘却の彼方に眠っていたのだった。
しかしながら、ロシアが積極的に海外の文化を自国に紹介し、
吸収しようとしていた時代が確かにあったのだと、沼辺さんは確信するにいたる。

「こんな重要な出来事が日本でもロシアでも忘れられてしまうんだな。
コレクターが過去を発掘する意味はあるんです」と沼辺さん。
次々と物証を見つけていき
「こんなこと調べても一銭にもならないけど、ものすごく誇りに思ったの。
ロシア人が外国の文化を取り入れようとした。
希望の灯があると、理想を持って生きていた人の言葉が
残っていることに感動したんです。
生身の人間が思ったことは必ず残る。
その人がいなくなっても、その人の情熱や思いが残っている。
後世にちゃんと伝わる。
僕がやっていることって何だろうと自分でも思ってしまうけれども、
調べずにいられないからやっているんだと思う」とのこと。

2部から3部への展開ーとくに3部がみごと。
沼辺さんの話術に魅了され、
次々と確証をつかんで次へ、また次へと進んでいく沼辺さんの体験を
追体験するかのような気持ちで聞き入る。
時代の息吹、人々の足跡を明らかにしていく沼辺さんの熱い口調に
終了予定時刻の8時になるのが速かったこと。

4部以降は、次の場所でということで、
打ち上げでも熱く語り続ける沼辺さんでした。

とにかく速報ということで、ぱぱっと書きました。
詳細は、沼辺さんご自身も書き記している部分がありますし、
西荻ブックマーク、トークショーPART2にも期待。
または、参加者の皆様、ご紹介をお願いします。

沼辺さんは若き日々、阿佐ヶ谷や西荻窪でひとり暮らしをした経験あり。
西荻窪と荻窪にあったライブハウス・ロフトに通っていたこともあり、
また、79年、中野サンプラザ前あたりの青空古本市で遭遇したのがロシア絵本。
当時1冊100円ほどで入手した11冊のうち大半は1950年代など戦後のもの。
しかし、2冊だけ良いものがあり、それは1930年代のもの。
1931年、自由な鳥たち(チャルーシン)
1932年、火事(サムイル・マルシャーク/ウラジーミル・コナシェーヴィチ)
(画像でスライドにうつっているもの)
それがきっかけで25年間かけてロシア絵本をコツコツ集め続けてきました。
コレクターが自分のコレクションを展覧会に出すと
市場での価値が上がってしまうため、自殺行為。
それを充分に承知のうえで、とあるきっかけから
2004年より「幻のロシア絵本1920-30年代展」を開催。
中央線沿線には愛着があり、西荻窪への深い縁も感じているそう。
音羽館にも長年通っているため、さまざまな条件が重なり、
今回のイベントとなったわけです。
西荻ブックマークのトークショーのため、熱心なスタッフらと
打ち合わせを重ねて今日の日を迎えたそうです。
私など何も苦心をしないで同席させていただき、
ありがたいやら恐縮するやら。
大変、良いイベントでした。
ああ、興奮冷めやらずですが、もう寝なくては。乱文失礼。
良い1日をありがとうございます。お休みなさい。

なお、同席させていただいた家人の感想を
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コメント(2)

眠たいなか、トークを要領よくまとめて下さってありがとう!
ひとつだけ訂正。1928年モスクワでの「日本児童書展」の出品点数は1,450点(!)でした。
打ち上げ会も含めると、六時間もしゃべったことになるそうな。我ながらよくやりますね。一夜明けてさすがに深く反省しており、今日は「僕は一寸、黙るつもりです」(from HOSONO HOUSE)という気分でおります。

沼辺さん、お疲れさまでした。ミクシーも拝見しました。
モスクワでの日本児童書展、ありがとうございます。その冊数をメモしたはずでしたが、昨夜、メモ書きのどこにあるか探せずにおりました。興奮して打ち上げで飲みすぎました(笑)。
同席した人から聞いた感想ですが、ポスターの写真が出たとたん、目頭が熱くなったそうです。その感じは私もよくわかります。

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